大手通り

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ページ番号1007570  更新日 2021年2月9日

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江戸時代、田原城の惣門から桜門(大手門)までの道路を「大手(追手)」と呼んでいました。これにちなんで、「大手通り」と呼ばれるようになりました。

この通りには、渡辺崋山の発案により田原藩が建設した報民倉や、明治時代に活躍した村松愛蔵の生家がありました。

報民倉扁額
【報民倉扁額】天保6年(1835年)。報民倉一ノ倉の正面入口に取り付けられた。ケヤキの木で作られています。当時の藩主・三宅康直の筆によると考えられています。
田原学校(現在の田原中部小学校)の仮校舎となった報民倉
【田原学校(現在の田原中部小学校)の仮校舎となった報民倉】明治31年(1898年)撮影。報民倉は明治維新後も残されていましたが、田原学校の校舎が明治28年(1895年)に火災により全焼した際に、報民倉を仮校舎として一時的に利用しました。その後、報民倉は明治末年に取り壊され、木材は近隣の住居等に使われました。

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