槍合橋(やりあいばし)

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ページ番号1007556  更新日 2021年2月9日

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昔、この場所には石で作った橋が架けられており、橋の下には水路がありました(現在水路は地下に埋設)。橋の名前は槍合橋(やりあいばし)といいました。名前の由来について、以下のような話が残されています。

永禄7年(1564年)、岡崎城主の松平家康(後の徳川家康)は、今川領となっていた東三河を攻略するために兵を進めました。田原城も攻略対象となり、松平勢は現在の加治町に付城(つけじろ((前進基地))を築き、城に押し寄せてきました。このとき、松平方の本多甚十郎と今川方の長谷川十郎三郎が槍を合わせて戦いましたが、地元に残る『田原城主考』という資料によると、それがここ、槍合橋であったとのことです。合戦は登り町、横町、新町、本町など、現在の田原のまちなか一帯で繰り広げられたようです。

この攻防戦は翌年まで続きましたが、松平方の攻勢に今川方の田原城代・朝比奈元智は交戦を断念し、城を明け渡して退去しました。

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