大手通りの豆知識2

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ページ番号1007572  更新日 2021年3月24日

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村松愛蔵家の跡地には、今も屋敷の植え込みが残存しています。

 村松愛蔵(1857-1939)は、現在の田原中部小学校敷地にあった屋敷に生まれました。道から見えるイヌマキの木は、元々村松家の庭に植えられていたものです。村松家は田原藩家老などを務める、藩内でも高い家柄でした。

 愛蔵は藩校・成章館で儒学や英語を学んだ後、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)のロシア語学科に入学しましたが、病気になり田原に戻りました。当時政治の世界では、板垣退助や後藤象二郎を中心に明治政府の専制的なやり方に反対して憲法の制定、国会の開設などを求める自由民権運動が起こり、士族層を中心に各地に広がっていきました。愛蔵は田原でこの運動の旗振り役となり、明治13年(1880)年には恒心社という政治結社を設立し、憲法の草案を発表しました。こうしたことから、田原は一時期「三河の土佐」と呼ばれるほど運動が盛り上がりました。

 ところが、自由民権運動は政府の厳しい取り締まりにあったことから、愛蔵は仲間たちと語らって武力蜂起を企てるものの失敗して逮捕され(飯田事件)、5年間を刑務所で過ごしました。釈放後は新聞記者を経て明治31年(1898年)の衆議院選挙で当選して政治家となり、立憲政友会に入りました。この時の選挙では、資金のない愛蔵に地元の人たちが手弁当で支援にあたったといいます。

 その後、明治42年(1909年)には業者から不正にお金を受け取った疑いで再び逮捕されました。事件は愛蔵のあずかり知らないところで起きたものでしたが、愛蔵は罪を認めて刑に服し、自分のだらしないところから起きたことであると恥じて、政界からも引退しました。

 服役中の愛蔵は妻から差し入れられた聖書などを読んで大きな影響を受け、キリスト教に入信しました。出獄後はキリスト教慈善団体の救世軍に入隊し、「社会鍋」という募金活動や、不遇な人々への身の上相談などを行い、多くの人を救っています。

村松
村松愛蔵肖像画像

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