白井勝蔵の豆知識
嘉永4年(1851年)に漂流しアメリカに渡った白井勝蔵は、帰国後に海外での経験を活かし、田原藩の国内運輸で活躍しました。
江戸時代、アメリカへの漂流といえばジョン万次郎の漂流が有名ですが、万次郎の漂流より遅れること約10年にして、田原にも海を漂流しアメリカに渡り、日本に戻って来た人たちがいました。
漂流した船の名は、永久丸といい、江比間村(えひまむら(現在の江比間町))の伊藤与市(いとうよいち)という人が持っていました。乗組員は、船頭の岩吉(当時66歳)とその弟の善吉(当時40歳)、作蔵(当時21歳、後の白井勝蔵)、勇次郎(当時21歳)の4人でした。
嘉永4年(1851年)9月に江比間を出航し、その後12月に熊野灘で激しい風と大波に見舞われ漂流しました。予想外の漂流で食料が尽き、空腹やのどの渇き、死の恐怖や絶望感の中で最後まで希望を捨てずに強い精神力で仲間を励まし続けたのが、船の中で一番行動力のあった作蔵でした。漂流すること85日、4人全員がグァム島付近の海上でアメリカの捕鯨船アイザック・ハウランド号に助けられました。彼らは、その後7ヵ月ほど捕鯨船の水夫として働き、太平洋を北上して北極圏にまで進み、9月にはハワイに入港しました。ここで、岩吉と善吉は、年配で妻子もいるため日本に帰国することが許されましたが、若い作蔵と勇次郎は、さらに見聞を深めるため船主からそのまま捕鯨船に残るように命じられました。作蔵と勇次郎は、ハワイから南アメリカ大陸の南端を巡り、アメリカ東海岸のニューベッドフォードに到着。この街を起点に蒸気機関車でボストンやニューヨークなどの大都市も訪れ、その後に様々な苦労の末に香港にたどり着きました。香港からは、フランスの捕鯨船に乗船して安政元年(1854年)12月、伊豆の下田港に到着、ここでアメリカの船に移り、幕府に引き渡しとなりました。2人が幕府からの取り調べ後に田原に帰って来たのは翌年9月のことでした。
外国の情報を熱心に集めていた田原藩は、2人からひそかに事情を聞き、その記録を「漂民聞書」(田原市指定文化財)として残しました。
作蔵と勇次郎はともに田原藩から武士として取り立てられました。勇次郎は体が弱くその後程なくして亡くなりますが、作蔵はその名前を白井勝蔵と改め、海外での航海の経験を活かし田原藩が建造した西洋型の帆船順応丸の指揮監督を務め、藩の国内輸送等で活躍しました。また、勝蔵は明治維新期の藩務にも尽くし、廃藩後も田原町稗田に明治30年(1897年)12月6日に60歳で病没するまで住んでおり、その墓が當行寺(とうぎょうじ)にあります。墓碑には、かつて大洋を漂流して生還した者らしく「漂海院不没信士」と刻まれています。

このページに関するお問い合わせ
都市建設部 街づくり推進課
電話:0531-23-3535 ファクス:0531-22-3811
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。