城宝寺の豆知識3
境内の黒い石碑には吉田茂の名前が刻んであります。
この石碑は、城宝寺の本堂奥にある渡辺崋山の霊牌堂(れいはいどう(位牌をまつるお堂))の建設にあわせて建てられたものですが、碑の裏側には戦後日本の政治をリードした吉田茂(1878-1967)の名前が刻まれています。この田原市と吉田茂の間にはそれほどなじみはないはずなのですが、それには以下のような事情があります。
明治43年(1910年)、渡辺崋山の顕彰を目的として、田原町(当時)に崋山会が結成されました。メンバーは主に地元の人たちで、彼らは池ノ原公園の整備や崋山の絵の展示会の開催などに積極的に取り組んでいました。
この動きは戦後も続き、昭和15年(1940年)に崋山会が発議した崋山神社設立計画は、昭和20年(1945年)の太平洋戦争の終結を挟んで、翌1946年に浜松市の井伊谷宮(いいのやぐう)の仮宮(かりみや)を移築し、竣工しています(この社殿は後に伊勢湾台風で倒壊したため、現在の社殿は1967年に再建されたもの)。
昭和28年(1953年)には新たに渡辺崋山顕彰会が結成され、会長に石黒利平(田原町長)、副会長に伊奈森太郎(教育者、元田原中部小学校校長)が就任しました。この会が主に目指したのは、池ノ原公園にあった崋山の幽居屋敷を復元することと、崋山の墓所がある城宝寺に霊牌堂を建設することでした。顕彰会は建設費用の寄付集めに奔走しますが、当時総理大臣であった吉田茂に会の名誉総裁になってもらったのです。もちろん名誉総裁というのは形式的なもので、寄付活動を周知するために有名人の名前を押し立てたかったのでしょう。このとき、愛知県知事であった桑原幹根(くわはらみきね)が名誉会長になっています(石碑では吉田の隣に名を連ねています)。
この計画は崋山のことを慕っていた多くの人の心を動かしました。崋山のひ孫弟子に当たる、南画家の松林桂月(1876-1963)もその一人で、霊牌堂の天井に飾る絵の寄付を当時の有名画家たちに依頼しました。
こうして建設された霊牌堂は、入口には鈴木翠軒(すいけん(書家・田原市出身))の「崋山先生霊牌堂」の題字が掲げられ、天井には計73図の花鳥画が描かれています。絵は桂月自身のものを含め、南画系、狩野派系、四条派系など多方面からの作品が集まりました。天井画全体の構成・配置を担当したのは、桂月の弟子の白井烟嵓(えんがん、豊橋市出身)でした。
この霊牌堂は昭和30年(1955年)5月14日に完成しました。色鮮やかな天井画は今でも健在で、見学することができます。

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