龍門寺の豆知識

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ページ番号1007543  更新日 2021年3月24日

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龍門寺(現在の浦町木綿畑)に徳川家康が泊まったという伝説があります。

 龍門寺は寺下通りに4つ並んだお寺のうち、最も西にあります。寺の東側の道には城下町の出入口であることを示す木戸が設けられていました。龍門寺は寺下通りにあったほかのお寺と共に、田原の城と町を守る役割も担っていたと伝えられています。ただし現在の場所に移転したのは、寺伝では安土桃山時代の16世紀末頃となっており、それまでは田原の町の北側の現在の吉胡町木綿畑にありました。

 さて、龍門寺は江戸時代になると、徳川将軍家から領地(5石)を安堵する朱印状を将軍の代替わりごとに受けています(徳川家光以降代々の朱印状の写しが国立公文書館に所蔵されています)。こうした書状は、ほとんどのお寺や神社では地元の大名から下されるものです。特に龍門寺が徳川将軍家から朱印状を受けている理由はよくわかっていませんが、両者の特別な関係をうかがわせます。

 思い当たることといえば、その龍門寺が吉胡町にあったころの、安土桃山時代の天正13年(1585年)と天正15年(1587年)の2度、当時三河を支配していた徳川家康が田原で狩りを行ったことです。江戸時代になって田原の領主になった戸田氏は、家康が2度の田原来訪時のいずれかで蔵王山の東側のふもとの山柄沢(やまがらさわ、地名)に宿泊したと想定し、そこに家康を祀る東照宮を建築しました。当時の龍門寺はその東照宮が建てられる場所のすぐ近くにあったのです。もしかすると、このときに家康と龍門寺に何らかの関わりがあったのではと想像させますが、両者を関係づける資料は残されていません。なお、この東照宮は現在、田原神明社の境内に移転しています。

 ちなみに、渥美半島には真偽は定かではないものの、他にも家康伝説はいくつかあり、例えば以下のようなものが残っています。

 

(1)家康が放った矢が刺さったところを矢崎と呼ぶようになった。(吉胡町矢崎、現在の吉胡貝塚周辺)

(2) 家康が本能寺の変後に関西から戻る際に渥美半島を通りがかり、野田町の運昌寺に世話になった。家康がほうびに何が欲しいか尋ねたところ、寺の老婆は「このあたりは火にくべるたきものが不足しているので、たきものをもらえないか」と答えた。家康は「どれほどほしいか」と聞いたところ、老婆は手に持っていたしゃもじで顔の前に大きく丸を書いたところ、家康は運昌寺の裏山を与えた。それ以降、運昌寺の裏山はしゃもじ山と呼ばれている。

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