大手通りの豆知識1
報民倉建設により、1人の餓死者も出さず天保の飢饉を乗り切った田原藩は、全国で唯一幕府から表彰されました。
報民倉は、天保6年(1835年)に建設された、飢饉に備えて食糧を備蓄しておくための倉庫です。報民倉は既に取り壊されて残っていませんが、ここから大手通りを進んだ、向かって右側に当時の位置を示す看板が立っています。
天保4年(1833年)から、東北地方を中心に既に冷害や洪水による飢饉が起こっていましたが、この情勢をみた家老の渡辺崋山が、天保6年(1835年)に報民倉の建設を藩主に願い出たといわれています。建設にあたっては、藩士から領民までが一体となり、進んで材木の伐りだしや石材の確保や、労役の提供、酒食の提供や無事落成の祈禱などの奉仕活動に当たりました。この年の9月に工事が始まり、早くも11月には2棟60坪の倉庫が完成しています。
一の御蔵の入口には「報民倉」の大きな文字が書かれた額が飾られ、藩主・三宅康直の筆によるものと考えられています(この額は重要文化財に指定され、現在田原市博物館で展示しています)。貯蔵される米の多くも藩士によって献納され、崋山は10俵を献上しています(藩士全体では124俵)。
翌天保7年(1836年)、田原藩領内は大規模な風水害に見舞われ、農作物に大きな被害が出ました。同じ三河国内では飢饉や一揆が起きる中、田原藩は藩を挙げてお救い米の放出、疫病の防止、田畑の復興に当たり、ついに餓死者を出すことがありませんでした。このことから、藩は幕府から全国で唯一表彰を受けています。
その後、報民倉は4棟まで建て増しされ、幕末に起こった飢饉の際にも活用されました。明治維新後も倉はそのまま残されており、明治28年(1895年)に向かいの田原学校(現在の田原中部小学校)が火災で全焼した際には、仮校舎として利用されました。明治の末年ごろに倉は取り壊され、資材は近隣の住宅に利用されたとのことです。
さて、現在田原城の惣門跡の横には「田原市報民倉」が建っています。この建物は、江戸時代の報民倉にあやかり、将来の災害に備え、生活に必要な物資(食料、毛布、テント、ポリ容器など)や救助・救出に必要な物資(救助用ロープ、スコップ、非常用発電機など)を蓄えておくもので、平成16年(2004年)に建設されたものです。
後年小学校校舎として使用された報民倉写真
防災倉庫「田原市報民倉」
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